わたしがおすすめする感動するオリンピックの名場面5本

はじめに

みなさんは、オリンピックを観て感動する事がありますか?

2020年に東京オリンピックも決定して、各地で「お・も・て・な・すぃ❤」の準備が着々と進んでいることでしょう。

オリンピックの長い歴史には、泣けるシーンやスーパープレイ、選手それぞれの物語など忘れられないドラマがあります。

今回は、選りすぐりのオリンピックの名場面を、動画付きでまとめました。

感動するものから泣けるものまで5本あります。

それでは、どうぞ。

1.井上康生

2000年 シドニーオリンピック 男子柔道100キロ級。

すべて1本勝ちで進んできた井上康生は、決勝の舞台に立ちます。

相手はカナダのニコラス・ギルです。

そして・・・

シドニーオリンピック_柔道男子_井上康生 – YouTube

井上は、前年にクモ膜下出血で急死した母の遺影を持って表彰台に立つのです。

これには裏話があります。

井上は、金メダルを獲ったら「オリンピックでメダルを取ることを一番楽しみにしていたのが母親。表彰台の一番高い位置に、その母親の遺影を持って立ちたい」と思っていました。

しかし、相談をした日本の柔道の関係者からはダメだと言われました。

表彰台には危険物を持っていけないことになっており、遺影のガラスがそれと見なされるからです。

その話を、外国の競技関係者の女性が知りました。

女性は表彰台に選手を誘導する係。

「服の下に遺影を忍ばせて行きなさい。私は何も見てないわ」と言われたおかげで、実行することができたそうです。

2.高橋尚子

2000年 シドニーオリンピック 女子マラソン

最強の時の高橋尚子です。

18km付近でスパート。

そして、34km過ぎで、かけていたサングラスを投げ飛ばしたと同時にスパート。

そして・・・

シドニーオリンピック 女子マラソン

とにかく強い。

そして、何と言っても楽しそう。

本当に『走るのが好きだ』というのが伝わります。

この時の金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶりで戦後初、そして、日本女子陸上においては史上初でした。

また、2時間23分14秒というタイムは、16年ぶりに更新された五輪最高記録(当時)でした。

こんな大記録を笑顔で打ち立てた高橋尚子はすごかった。

3.体操男子団体

2004年 アテネオリンピック 体操男子団体決勝

日本は、第1種目のゆかで7位スタートとなります。

第2種目のあん馬では、鹿島丈博を中心に3位にまで追い上げます。

5種目を終えた時点で、1位ルーマニア・2位日本・3位アメリカとなります。

首位ルーマニアとの差はわずかに0.063、3位アメリカとは0.062と3チームに優勝のチャンスがある状態で、勝負は最後の鉄棒へと持ち込まれます。

そして・・・

アテネオリンピック 日本体操男子団体 金メダル – YouTube

この名シーンの影の立役者は、刈屋富士雄アナウンサーでしょう。

冨田選手のきれいな着地に合わせた「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」という名実況。

これがあるから、感動は倍増するのでしょう。

4.女子ソフトボールチーム

2008年 北京オリンピック 女子ソフトボール決勝

2005年7月 IOC総会で、2012年のロンドンオリンピックからソフトボールを正式競技から除外される事が決まりました。

復活しなければ、この大会がオリンピックで最後のソフトボールということになったのです。

よって、この北京オリンピックが『最後の金メダル』になる可能性があるのです。

決勝の相手はアメリカです。

アメリカは、過去3大会で、すべて金メダルを獲得しています。

当然、優勝候補。

決勝まで圧倒的な強さで勝ちあがってきていました。

そして・・・

Japan vs USA – Women’s Softball – Beijing 2008 Summer Olympic Games

なんと言っても、解説の宇津木妙子さんです。

彼女は1997年~2004年まで日本代表監督を務めました。

2000年 シドニーオリンピック銀メダル、2004年 アテネオリンピック銅メダルという輝かしい記録を残しています。

残念ながら、金メダルには届きませんでした。

それを、後輩たちが目の前で手にしたのです。

宇津木さんは、金メダルを獲ることの難しさを充分に知っています。

だからこそ、喜びが爆発したのでしょう。

有名な上野由岐子選手が肩車をされて、みんなで指を上げているシーン。

あれは、解説席にいる宇津木さんに向けてやっているそうです。

「1番を獲ったよ」と。

5.船木和喜・岡部孝信・斎藤浩哉・原田雅彦

1998年 長野オリンピック スキー・ジャンプ 男子ラージヒル団体

この日、天候は荒れていました。

3番手の原田の1回目のジャンプは、運悪くほとんど前も見えないような大雪でした。

そして、原田のジャンプは、80メートルにも及ばない大失敗となってしまうのです。

2人目までトップだった日本の順位は、この時点で2位に下がります。

さらに、悪天候に泣かされた船木も飛距離が伸びず、1本目終了時点で日本は4位まで落ちてしまうのです。

そして・・・

98長野五輪スキージャンプ団体 感動の金メダル – YouTube

忘れてならないのは、25名のテストジャンパー達です。

この大会では1本目終了時点で、悪天候により打ち切りの可能性もありました。

2本目が行われるかどうかは、テストジャンプの結果次第だったのです。

彼らの任務は、競技前や競技の続行を決める時に、滑走路や風の状態を確認する事です。

この日、雪はやまず、テストジャンパーが飛べるかどうかで、試合を続行させるかどうかが決まるのです。

すなわち、彼らの誰かが失敗したら試合は終了します。

この時のテストジャンパーは、日本代表入りを逃した選手たちでした。

西方仁也選手は、テストジャンパーを集め「死ぬ気で飛んでくれ」と言います。

テストジャンパー達は「日本を、そして原田さんをこのまま終わらせてはいけない」という想いを胸に、次々に鮮やかなジャンプを決めるのです。

そして、競技再開となります。

日本チームの2本目、原田選手の出番です。

彼は、テストジャンパーの控え室に向かって「よし、いくぞぉー!!」と気合を込めて叫び、ジャンプ台に向かうのです。

原田は「両足を複雑骨折してもいい」と言うほどの覚悟で、2本目のジャンプを飛んだそうです。

最後に

どうでしたか。

2016年にはリオデジャネイロオリンピック。

そして、2020年にはドキドキワクワクの東京でオリンピック。

どんなヒーロー・ヒロインが現れ、感動をさせてくれるのでしょう。

それでは、水野晴郎さん調で、「いや~、オリンピックって本当にいいもんですね」

・・・おわり。

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