三沢光晴の凄さをインタビューで振り返ります

1.はじめに

わたしはプロレス好きです。

そして、一番好きなプロレスラーは『三沢光晴』でした。

なぜ、“でした”と書いたのか・・・。

彼は、2009年6月13日の広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権試合 バイソン・スミス&齋藤彰俊 VS 三沢光晴&潮崎豪 で、意識不明・心肺停止状態になり亡くなったからです。

わたしは、翌日の朝のニュースで知りました。

ちょうど、そのニュースを伝えていたのが徳光和夫さんだったのが、何とも言えない気持ちになりました。

呆然自失で、信じられない気持ちでした。

あれから月日が流れ、今でも好きなプロレスラーです。

そこで、三沢光晴がどれだけすごかったのか・・・いろいろなプロレスラーのインタビューでふり返ってみようかと思います。

2.プロレスラー 三沢光晴

【小橋建太】

三沢さんは僕より7~8年先輩だったかな?それだけ上なのに僕の思いを受け止めてくれたから、ああいう“三沢VS小橋”っていう試合ができたし、思いを受け止めてくれなかったら、僕の思いが空回りするだけだった可能性だってありましたよ。そうしたら、僕だって「なんだよ?」ってなってただろうし。その後のノアもなかったと思いますから。

【秋山準】

よく三沢さんのことを『閃きの天才』って言いますけど、僕は閃きとかじゃなくて、今まで積み上げてきたものをそこで出している、基本に忠実な綺麗なプロレスをする人だと思ってます。みんなが驚くような技でも、三沢さんとしては閃きではなく、しっかり考えて練りに練って出していたと思うんですよ。

【田上明】

三沢さんはとにかく勝てない存在だった。力で行ってもかわされる。だから初めて三冠戦で勝った時はうれしくてね。ダイビングネックブリーカーをノド輪で切り返したんだけど、あの感触は覚えてる。

【越中詩郎】

性格は大人しかったけど、器用だったよね。三沢のデビュー戦の相手は俺が務めたんだけど、入門して半年かからないデビューだったから、当時としては本当に異例。あと、新弟子の練習というのは受け身が中心で、試合の練習なんか一切教えないんですよ。でも、彼はデビューしてすぐに、教えなくても試合になってたんだよね。ああいう人間は、他にいなかった。デビュー間もなく、ちゃんとプロレスができるっていうのは、ジャンボ(鶴田)さんと三沢ぐらいでしょうね。

【天龍源一郎】

(“三沢は上手で武藤は巧い”という発言について)三沢は汚いことを一切せずに正攻法の中で勝ちを見出す。武藤は臨機応変にいろんなことをやりながら勝利を導く。武藤は「武藤ならありかな」っていうこともやるけど、三沢は「それはないだろう」っていうことは絶対にしないで、綺麗なプロレスをやるんですよ。三沢はアマレスをやっていたバックボーンや馬場さんからの教えをそのままリングに表わす。武藤は柔道やっててプロレスの世界に飛び込まされて、自分の中の感覚でのプロレスだと思うんだよね。

【スタン・ハンセン】

私は三沢にトップのポジションを譲るつもりはなかったから、彼を本気で叩きつけた。本当にトップに立ちたいなら、実力で上がってこいというのが私のスタンスだった。そして彼は何度も立ち上がり、しだいに私を越えるようになった。彼は実力と諦めない心で真のトップに立った。

【丸藤正道】

(2006年12月10日 GHCヘビー級選手権試合について)ジュニアの動きにも対応してしまう三沢さんの恐ろしさ。攻めても攻めても返され、逆に返しても返しても追い込まれ、自分の未熟さと三沢さんの凄さを改めて体感した試合でした。

【渕正信】

やっぱり誰もが言うように、受け身が素晴らしいよね。あとは反射神経。それと技を食った後の立ち位置ね。三沢はすぐに自分のポジションを取って、次の展開に入れるんだよ。レフェリーの目や、それこそ自分の背中にいる観客も意識して、全体的なことを考えて試合ができる選手だよね。

【髙山善廣】

全日本では、最初、川田利明を追いかけてきて、それが一区切りついたあと、小橋健太と闘うことにやる気になってて。後半になると三沢さんと絡み出すようになったの。三沢さんとやる前はそんなに「闘いたい」とは思ってなくて、「三沢さんはどうなんだろう?」ぐらいの感じだったんだけど、やってみたら奥が深すぎた。底が見えない底なし沼みたいな感じで、「うわっ、この人すごい」ってなって、「この人に向かっていったら、俺はどんどん成長できる」と思った時だったんだよね。

3.社長 三沢光晴

【前田日明】

(NOAHの社長兼エースについて)そこは本当に大したもんだと思っていた。全日本を飛び出したとき、自分より先輩もいっぱいいるわけじゃない。下だけでも大変なのに、上の人間もコントロールしてね。それに、日テレでの放映まで持っていって、そういう交渉力、経営能力だとか、正直すごいな、プロレス界にはちょっといない人間だな、と見ていました。

【武藤敬司】

(訃報を聞いて)橋本の時は信じるのに半日かかった。今回は衝撃が大きく理解できなかった。おれ以上のレスラーなのに・・・。同じ釜の飯を食ったわけではないが、同じ年で生まれてきたときから敵対関係。一選手として比較されてきた。

道しるべのない中、プロレスをどう引っ張っていくのか。同士的存在。25年間で5、6時間話したぐらい。腹を割って、酒飲んで、愚痴ったりしたかった。日テレの分をどう補っていくのか? 集客力も技量も三沢に依存していた。苦しかったのでは…。

【秋山準】

(会社の中で)摩擦はあったと思いますよ。あんまり会社に行かなかったからよくわからないですけど(苦笑)。でも三沢さんが抑えてくれていたんじゃないですか? 自主性を重んじてくれるというか。だから僕はタッグを組んでいた頃の自由は非常にやりづらいというか、迷ったこともありましたけど、ノアになってからの自由は僕にとって非常にやりやすかったですね。僕が自由だったということは、僕の自由を三沢さんがかなり守ってくれていたからだと思います。それは本当に感謝してますね。それこそ「秋山をフリーにしたほうがいいんじゃないか」っていう話も内部であったみたいですけど、僕は直接聞いてないですからね(苦笑)。今、僕がこうやっているのも、そこで三沢さんがグッと我慢して僕を自由にさせてくれたからだとも思いますね。

4.人間 三沢光晴

【ザ・グレート・カブキ】

初代タイガーマスクがやめた時に梶原一騎から馬場さんに二代目の話が来て、俺に「お前、誰がいいと思う?」と言うから「三沢じゃないですか?」って言ったんだよ。三沢はその頃メキシコに行ってたんだけど、馬場さんの頭の中にも三沢があったから、「そうだよな、俺もそう思う」って、すぐ電話してね。ちょうど三沢もメキシコでホームシックにかかってて早く帰りたかったから「はい、やります!」と。「バカヤロウ、お前タイガーマスクになるんだぞ」って馬場さんが言ったら「何でもやります!」って(笑)。

【川田利明】

(店をオープンした理由を聞かれ)なんて言えばいいのかな。俺は高校のレスリング部からプロレスと、ずっと三沢さんと同じ世界にいて・・・たとえ闘うリングが別になっても「あの人が頑張ってるから俺も頑張らなきゃ!」っていう気持ちがあったんですよ。

それが・・・ああいうこと(リング禍)になっちゃって・・・自分もテンションが上がらなくなって・・・。何か、そういういろんなことが重なったというか。

そういう意味では、三沢さんのことは大きかったですね。それでだんだん、プロレスに魅力がなくなってきたっていうか。まあ年齢的なものもありますし。

【天龍源一郎】

(元一世風靡の武野功雄さんの披露宴にて)プロレスラーを結婚披露宴に呼んじゃいけないってやつですよ。三沢、小川(良成)、小橋(建太)と同じテーブルになって、久々だから嬉しくなっちゃって宴会場のお酒を俺たちが全部飲んじゃいましたよ。あの時は三沢と小川が組んで、俺を早く酔っぱらわせて帰らせようとしたんだよ(苦笑)。それで小橋を使って俺にガンガン飲ませて。でも小橋も酔っぱらって帝国ホテルのトイレを壊しちゃったけどね(苦笑)。俺は小川にタクシーに乗っけられて……気付いたら家でしたよ(苦笑)。三沢も酔っぱらってたなあ。二次会でゲーゲー吐いてたらしいから(苦笑)。

5.三沢光晴がインタビューで語ったプロレスについて

【三沢光晴】

基本最初は純粋に「プロレスやりたい!」っていう気持でやってましたね。

誰でもプロレスごっこやったことあるでしょ。俺は体操部だったんで、やわらかいマットがあったんですよ。後輩にブレーンバスターとか、かけたりしてね。審判台の上から飛んだりして「お前絶対うけろよ!」みたいな事やってましたからね(笑)。

「プロレスラーって楽しいだろうな」って思ってましたね、純粋に。ましてや、派手な動きのある技って、当時はまだ少なかったですからね。

僕らの頃は(アニメの)「タイガーマスク」とか、「キックの鬼」とかね。ほんと「真空飛び膝蹴り」って時代ですよ──実際はあんなに飛ばないですけどね(笑)。「あー、あれって漫画だったんだ……」って後からわかるわけなんですけど(笑)。まー、とにかく純粋に「プロレスをやってみたいな」っていう気持ち。

お金の事も一切考えなかったですね。「いくらぐらいもらえるんだろ」ってのも、ありませんでしたね。「男と生まれたからには、何か残したいな」って事だけですね。だからデビューした時には、ホントうれしかったです。「俺って、もしかしてプロレスラー?」みたいな(笑)。「プロなのかな?」みたいなね。会場でもサインください、みたいになるわけでしょ。「え、俺なんかのサインが欲しいの?」みたいなね。すっごいうれしいわけですよ。それが今じゃね~(笑)。「えー、サイン?」みたいになっちゃって、人間ってダメだなぁって思う訳なんですけど(笑)。

でも、振り返ってみると、自分の人気が出てうれしいってのはもちろんありますけど、そのためにこの世界に入ったわけじゃないんですよ。ただプロレスやりたいって事で始めてるんで。あとからついて来たもんっていうかね。人気が出て、ファンの方から声援もらうなんて考えなかったですから。「プロレスだけやれればいいや」って思ってましたからね。最近では、入ってくるなり「給料いくらぐらいもらえますか?」って若い選手もいますからね。大体そういうのは、すぐやめちゃって残らないですけど。

そもそもリングに上がるまでがキツいですから。見える部分は華やかですけど、かっこわるい時もありますし。地味ですからね、いつ終わるかわかんない腕立てとかね。

6.最後に

こうやって見てみると、いかに三沢光晴というプロレスラーにセンスがあり、強く、魅力的だったのかわかります。

わたしが個人的に好きなエピソードは、冬木弘道の引退興行です。

冬木は2002年4月7日に三沢とシングルを行います。

その2日後、冬木軍主催興行の試合後に引退表明をするのです。

理由は大腸癌でした。

冬木はWEWという団体を立ち上げたばかりで、まだ興行をうてる状態ではありませんでした。

そこで、三沢は4月14日のディファ有明を押さえ、プロレスリングNOAHの全面協力で冬木の引退興行を行うのです。

メインイベントは三沢・小川・冬木組VS菊池・井上・田上組

冬木が地団駄ラリアットで菊地を押さえて勝利します。

そして引退セレモニーも行われます。

終了後、控室で冬木は涙を流しながら「最高の終わり方だったよ。ダンスだって何だって好きなようにやらせてくれて。天龍さんと別れて1人になった時も、どうしようもなくなったら三沢が何とかしてくれるって思ってたよ。親友だよ、本当に」と語ります。

この時の収益は全て冬木に贈られました。

三沢と冬木は、若手時代を一緒に過ごした親友でした。

その親友の花道を作ってあげたのです。

なんて男でしょう。

彼が亡くなり、年月もだいぶ流れました。

しかし、わたしが好きなプロレスラーは、やっぱり三沢光晴のままです。

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